末期がんの宣告を受けた独身中年男性の日常

健康診断ってすごい大事よ?

今後の方針

 医師からの説明として、どうやって今後ガンに立ち向かっていくのか。その方針を何通りか説明されました。

 しかしながら一番可能性の高い方法として、まずは患部よりも小腸側の大腸をおなかに人工肛門として出して、膀胱まで浸食しているS状結腸のガンを切り取れる位まで抗がん剤治療にて小さくし、それが成功したら膀胱ごとS状結腸ガンを切り取り、人工肛門を無くして大腸を繋げる。更に状況によっては転移している肝臓のガンも取り切ってしまう。

 

 医師の治療方針としては、簡単に言えばこういう事でした。

 

 まず最初に入院中に人工肛門を出す手術を行います。退院してしばらく人工肛門での生活を送り体力を付け、外来で抗がん剤治療を1日する。2週間で体力を取り戻しまた外来で抗がん剤治療というルーティンで6回の抗がん剤治療を行い、ガンの状況を確認。抗がん剤が効いているのかいないのかを確認するのです。

 

 私にとっては大きな山を2つ越え、それが上手くいって初めて最後の大手術に挑む形になる訳です。1つ目の山は良しとして、2つ目の山。抗がん剤治療の山を上手く越えられなければ、後は少しでも死期を伸ばすしかないという事になる訳です。

 

 厳しい……厳しい戦いです。

 

 そして最後にある山。大手術となる山は一筋縄では行かないでしょう。肝臓の摘出も控えている訳ですから。

 

 そしてこれはあくまでも現状のままであった場合。最後の山までに他にも転移が進んでしまったら……ジ・エンドですよ。

 

 私は今年の段階でも我慢している事がありました。やりたいことが山ほどありました。釣りにも行きたかったし、ミニ四駆ジャパンカップにも出場してみたかった。流行りのひとりキャンプは動画でばかり観てその意欲をため込んでいて、元々の病気を治すのは現代医学では無理だとしても、何とか薬と上手く付き合って症状を抑え込み、社会復帰もしたかった。

 

 今まで自分の死については本気で意識した事はありませんでした。持病を除けば大きな病気を患った事もなく、健康そのものと思っていた自分が、こんなにも自分の死期を意識させられてしまうなんて……

 

 今年残りは全て治療に捧げ、来年にはやりたい事もひとつひとつ実現させていきたいと願うのですが、いかんせん結末が3パターンありそのうちの2パターンが最悪の結末となると思うと。

 

 とは言え、今までの人生のなかでガンに苦しみお別れした身内は、何人も見送ってきました。現状私が言えるのは、週末病棟にお世話になる様な延命の為だけの治療はしたくない。それだけは漠然と思います。

 

 後悔の無いように、これからは自分の死に対して目を逸らさずに真剣に向き合って行きたいと思います。

 

令和4年6月22日 夜の心情

ガン宣告の日

 家族を呼ぶようにと、検査入院中の私に仰る担当医師。

 明日には退院出来る予定だった私は少々焦りはしたのですが、独り身の私は両親を呼びます。

 

 母は体調が優れず父が一人で病院に来ました。

 二人が揃って消化器科のナースステーションの個室に通されると、担当だと言って外科の先生が入って来ました。

 

 先生が我々に向き直って話を進め、私の現状が本人の想像など遥かに凌ぐ程よろしくない状態だと聞き、そして大きくショックを受けた。

 

 その後の話は長々と、そして細やかに分かりやすく先生が説明してくれたのだろうが、当の本人はまともに耳に話が入ってこない。だってその単語は、病気に疎い私でも知るパワーワード『ステージⅣ』。

 

 ぼ~っと。まさに口が半開きにでもなっていたでしょう。呆然としている中、それでも必死に話の内容に聞き入る父は、軽く震えながら涙目だった。

 

 そこでショックを受けた後から初めて実感が湧いた。一気に泣きそうになってくるのを必死に堪え、すごく大きな罪悪感に苛まれました。

 

 別の病気が原因とは言え40歳過ぎて自立もせず、当然の様に孫の顔を見せるという孝行をする事もないまま。前の病気から見て次は生死に関わる大病。これを41歳の誕生日の前の日。厄年の最終日にこんな宣告を受ける事になるとは。(ちゃんとお祓いには行ったんですがね)

 

 前回の病気は前職があまりに過酷で体調を崩し、それがキッカケで先天的に持っていな『ナルコレプシー』という病気が重度の状態となってしまい、車の運転を医師から禁止され、勤めていても就業中に突然眠りに落ち、感情の高ぶりによって情動脱力発作という症状が現れ、職場にいて仕事が出来なくなってしまいました。

 

 前職を退社したのが32歳。それからはアルバイトの様な形で依頼があれば書類関連等を作成し、年平均100万弱の収入で今まで生活してきました。

 

 そうです。はたから見たらいつ死んだっていい様な、謂わば社会の底辺に近い人間です。当然自分が家族を養ったりなんて想像もつかず、それまで力を入れていた婚活もぱったり辞め、生涯独身を覚悟し両親の老後に付き添うという名のすねかじりをして生きてきました。

 

 日々の楽しみはネットサーフィンとミニ四駆。海で年に何度かのロックフィッシング。生産性のない日々をダラダラとイジけて送ってきました。神様から『もういいんじゃない?』と今回言われたのかもななんて、気のない感じに鼻で笑いながら思ってみたり。

 

 しかし説明後コロナの影響でそれから父と話し合う事も出来ず。父は帰宅し私は入院中の4人部屋に戻りました。LINEで父とやり取りをしましたが、帰って話をした後、母は落ち込み倒れてしまったと……

 

 私の人生はいくつもの『if』を重ねて今に至りますが、30歳の時の選択をした事でそのタイミングから絶賛超絶親不孝中。70歳を超えた後先短い両親に更に追い打ちを掛けてしまって、本当に本当に悔しくて―—

 

本当にゴメンな?父ちゃん。

本当にゴメンな?母ちゃん。

 

令和4年6月22日 夜の心情より―—