ガン宣告の日
家族を呼ぶようにと、検査入院中の私に仰る担当医師。
明日には退院出来る予定だった私は少々焦りはしたのですが、独り身の私は両親を呼びます。
母は体調が優れず父が一人で病院に来ました。
二人が揃って消化器科のナースステーションの個室に通されると、担当だと言って外科の先生が入って来ました。
先生が我々に向き直って話を進め、私の現状が本人の想像など遥かに凌ぐ程よろしくない状態だと聞き、そして大きくショックを受けた。
その後の話は長々と、そして細やかに分かりやすく先生が説明してくれたのだろうが、当の本人はまともに耳に話が入ってこない。だってその単語は、病気に疎い私でも知るパワーワード『ステージⅣ』。
ぼ~っと。まさに口が半開きにでもなっていたでしょう。呆然としている中、それでも必死に話の内容に聞き入る父は、軽く震えながら涙目だった。
そこでショックを受けた後から初めて実感が湧いた。一気に泣きそうになってくるのを必死に堪え、すごく大きな罪悪感に苛まれました。
別の病気が原因とは言え40歳過ぎて自立もせず、当然の様に孫の顔を見せるという孝行をする事もないまま。前の病気から見て次は生死に関わる大病。これを41歳の誕生日の前の日。厄年の最終日にこんな宣告を受ける事になるとは。(ちゃんとお祓いには行ったんですがね)
前回の病気は前職があまりに過酷で体調を崩し、それがキッカケで先天的に持っていな『ナルコレプシー』という病気が重度の状態となってしまい、車の運転を医師から禁止され、勤めていても就業中に突然眠りに落ち、感情の高ぶりによって情動脱力発作という症状が現れ、職場にいて仕事が出来なくなってしまいました。
前職を退社したのが32歳。それからはアルバイトの様な形で依頼があれば書類関連等を作成し、年平均100万弱の収入で今まで生活してきました。
そうです。はたから見たらいつ死んだっていい様な、謂わば社会の底辺に近い人間です。当然自分が家族を養ったりなんて想像もつかず、それまで力を入れていた婚活もぱったり辞め、生涯独身を覚悟し両親の老後に付き添うという名のすねかじりをして生きてきました。
日々の楽しみはネットサーフィンとミニ四駆。海で年に何度かのロックフィッシング。生産性のない日々をダラダラとイジけて送ってきました。神様から『もういいんじゃない?』と今回言われたのかもななんて、気のない感じに鼻で笑いながら思ってみたり。
しかし説明後コロナの影響でそれから父と話し合う事も出来ず。父は帰宅し私は入院中の4人部屋に戻りました。LINEで父とやり取りをしましたが、帰って話をした後、母は落ち込み倒れてしまったと……
私の人生はいくつもの『if』を重ねて今に至りますが、30歳の時の選択をした事でそのタイミングから絶賛超絶親不孝中。70歳を超えた後先短い両親に更に追い打ちを掛けてしまって、本当に本当に悔しくて―—
本当にゴメンな?父ちゃん。
本当にゴメンな?母ちゃん。
令和4年6月22日 夜の心情より―—